夕方になった頃、頬に触れられた冷たい手に気付いて目が覚める。
「········母上、もう起きても平気なの?」
困ったような顔で藍歌は見下ろしてくる。
「ええ。でも今度はあなたがそんな状態だったから、驚いてしまったわ」
自分の寝台の下で倒れていた無明の姿を見た時、心臓が止まるかと思った。目が覚めて最初に視界に写った我が子は、顔色が悪くとても苦しそうに息をしていたのだ。だが今の力が抜けた自分の腕では寝台に運ぶこともできず、額の汗を拭ってやることくらいしかできなかった。
「まだ起き上がらない方がいいわ、」
無理に起き上がろうとしている無明の肩を抱いて優しく諭すが、ふるふると首を振ってなんとか身体を起こす。
「大丈夫。さっきよりはずっと楽····って、あれ?」
なんとか身体に力を入れて起き上がろうとしたその時、身体に掛けられていたのだろう薄青の衣が、膝の上にはらりと落ちた。毒が回っていたはずの身体がかなり楽になっている。薄青の衣を軽く握って、無明は白笶が毒の処置をしてくれたのだと察する。
(目が覚めるまで、ここにいてくれれば良かったのに。奉納祭の御礼もまだ言ってない····)
外の様子を見れば夕方になっていた。どうやらあれからかなりの時間、ここで眠っていたようだ。
「母上、父上からの使いはまだ来ていないよね?」
「なにかあるの?」
こく、と頷き、藍歌が倒れた後に起こったことをすべて話す。奉納舞が上手くいったことや、その後のことも。
「では、あの方がこんな企みを? いったい何のために、こんな、」
正直、あまり関わりのない人物の名前が出たことに、藍歌も腑に落ちない表情をしていた。
「それはもちろん、本人の口から、宗主の前できちんと話してもらうよ」
どんな言い訳をしようが、絶対に言い逃れができないようにする。そして正当な罰を下してもらうことが、今回の件のけじめなのだ。
「母上の方こそ、まだ身体を休めていた方がいい。俺は大丈夫だから、」
ね、といつもの無邪気な笑みを浮かべ寝台に促す。仕方なく、藍歌は言われるがままに元の場所へ戻った。
「失礼します。宗主より公子様にお呼びがかかりました。準備が出来ましたら、お声掛けください」
外から聞こえてくる声に、うん、わかった! と無明は答える。衣裳を着替えるのも面倒なので、髪の毛だけいつものように後ろで一本に括る。赤い紐が編み込まれたままの髪も一緒に括っているため、それはそれで少女のような姿だったが特に気にする様子もない。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい。でも、無理はだめよ、」
生まれた時に見たその瞳は、それ以来仮面の奥に隠れてよく見えなかった。けれども今はすぐ目の前にあって、なんだか懐かしい気持ちになった。手を伸ばしてもう一度頬に触れる。こんな風にしっかり触れてやることも、ずっとできなかったから。
「母上の手は、冷たくて気持ちいいね」
ふっと目元を細め、どこまでも甘えるように笑って、無明は頷く。
その細身の後ろ姿を見送って、静かに祈る。なんだか無明が遠くに行ってしまうような不思議な感覚があった。
気のせいであればいい、と瞼を閉じ、藍歌は再び眠りに落ちた。
✿〜読み方参照〜✿
白笶《びゃくや》、藍歌《らんか》
屋形船が大きく揺れ、バシャッと水飛沫が前方に上がった。それが水面に戻っていくのと同時に、水飛沫で遮られていた無明の視界が戻り、水面がすぐそこにあることに初めて気付く。 白笶は思わず、船から身体半分落ちそうになっていた無明を後ろから抱きしめて、そのまま背中から倒れ込んだ。「いてて······だ、大丈夫ですかっ!?」 大きな揺れで尻もちをついて倒れた船頭が顔を上げると、前方の方でふたりが仰向けに重なって倒れていた。「あまり身を乗り出すと危ない」「もっと早く言ってくれると······嬉しかった、かな?」 白笶を下敷きにしたまま、仰向けで無明は苦笑いを浮かべる。水飛沫で髪の毛と衣がびっしょりと濡れてしまい、その濡れた衣の下敷きになっている白笶にも浸っている。(ちょっ······これ、見て見ぬふりをするのが正解? それとも突っ込むやつ?) 状況的には水に濡れているので、落ちそうになったのを公子が助けたという図で間違いないだろう。船頭はひと呼吸おき、櫓から手を離してふたりの方へ向かおうとしたその時だった。「すみません! 皆さん無事ですか!?」 ほぼ同時に、小舟の船頭の中年の男が青い顔でこちらに声をかけてくる。屋台船の青年はふたりが無事なのを確認し、それからぶつかったと思われる先端部分に行き、覗き込む。特にどこか損傷している様子もなく、小舟の船頭に、こっちは問題なさそうだと伝える。「本当にすみません。後でなにか問題があれば、この先にある楊家に言ってくれると助かります」「わかった。この先も水路が狭いから、気を付けて進んでくれ」 本当にすまない、と何度も頭を下げ、小舟はゆっくりと遠ざかって行った。それを見送って、再び倒れたままのふたりへ視線を向ける。船頭の青年は無明に手を貸して身体を起こすと、下敷きになっていた白笶が解放された。「ごめんなさい、ありがとう船頭さん」「いえ、お怪我はありませんか? 公子様も、背中、大丈夫です?」 白笶は何事もなかったかのようにむくりと身体を起こし、先に立ち上がっていた無明に視線を移す。船頭の青年に「問題ない」と返事をし、無明の前に立つと、濡れた顔を自分の衣の袖で拭った。前髪から滴る水滴が気になり、指で軽く横に梳き、また袖で拭う。「大丈夫だよ? 今日は暖かいから、このくらいならすぐに乾くと思う」 へへっといつものよう
碧水の都の市井は、商いの街とも言われており、さまざまな商品を取り扱う商家が多く存在し、数多くの店を出している。 湖の上に造られた都のため、ほとんどの建物の下は、木橋の下部のような構造になっていた。運河とも呼べる水路を挟んで、左右に大小さまざまな建物が存在している。運河を行き交うのは、運搬用の小舟と、移動用の四人くらいは乗れそうな、屋根の付いた屋形船の二種類だけだった。 等間隔に用意された桟橋の近くには、それぞれ違う屋台が所狭しと並んでいる。無明は眼を輝かせて、右に興味があるものがあれば右に座り、左で屋台の売り子の声がすれば左に、狭い屋形船の端と端を、忙しなく行ったり来たりしていた。 その様子をなにも言わずに静かに見守り、飽きもせずに見つめているのは、白群の第二公子である白笶である。本日は修練のない日で、昨日まで降っていた雨も止み、澄み切った青空が広がる絶好の観光日和であった。「お連れ様はどちらのご出身で?」 後方で船を漕ぐ若い青年の船頭は、無明のはしゃぎっぷりに嬉しくなり、思わず声をかけた。白笶のことは都で知らない者はいないため、そういう意味でも連れがいることに興味しかなかった。(あの第二公子様が一緒にいる方ということは······めでたいお知らせが近い内にこの都に広がりそうだ) そして安定の勘違いを、脳内で勝手に繰り広げられている。「紅鏡だよ」 黒い衣を纏った珍しい翡翠の瞳のそのひとは、こちらを振り向きにっこりと笑みを浮かべた。 赤い紐で一本に括っていても腰まであるその長い髪の毛は、振り向いた時にゆらゆらと尻尾のように揺れて可愛らしい。なにより明るく活発そうな感じの良い返答に、青年は船を漕ぎながら思わず見惚れてしまう。「そ、······それは遠い所から! よくぞお越しくださいました!!」 数秒固まってしまっていたが、青年の船頭は慌ててその返答の返答をした。(まさかの紅鏡のお嫁さんか! あれ、でも瞳の色が、) そんなことを考えていると、前方から小舟がやって来るのが見えた。行き交う小舟や、同じような屋台舟が横を通り過ぎていく間、片方の船は止まる必要があった。進行方向があり、ちょうどこちらの船が止まる義務があるのだ。運搬用の小舟が、荷を積んで横をゆっくりと通り過ぎていく。 軽く右手を振って合図をし、相手も同じように右手を振って応じた
夕餉までの約一刻半、白冰が唯一余裕のある時間に無理矢理捻じ込んだ、金虎の第四公子との時間は、思いの外有意義なものだった。「君は一度も修練や座学に参加したことがないって言ってたよね? とりあえず基本的なことから始めようか」「はーい」 文机を挟んで、無明が楽しそうにこちらを見てくる。誰かから教わるということをしてこなかったため、先生や師匠などもちろんいない。独学で書物を読み漁った知識しかなく、どんな話が聞けるのか期待しかなかった。「まずは妖者の種類からいこうか。一番身近なのは殭屍だよね。これは元々人で、死んでから陰の気に当てられ動き出してしまう死体のこと。これに自我はなく、ただ生きた人間を喰らうことに執着した屍だ。奴らには自我がないから傀儡にしやすく、かつての烏哭の術士たちがよく操っていたという」 この地で最もよく見かける妖者で、その身体が朽ちるまで動き回るため、ある意味厄介な存在である。焼くか、浄化し陰の気を抜くか、もしくは四肢をバラバラにすることで倒せる。昼はのろのろと動きが鈍いが、夜になると獣のように早く、凶暴になるのが特徴だろう。「あとは悪霊や怨霊の中でもより強い存在を幽鬼と言って、人に呪いをかけたり時間をかけて命を奪ったりする。恨みをもったまま死んだ人間が悪霊になって、さらにたくさん人を殺して鬼に近くなった存在って感じかな。例外もあるけど。人の世で起こる様々な怪異は、これらが関わっていることが多い」 身体がないので鬼にはなれないが、それに近い悪霊というところだろう。「妖鬼には等級があり、上中下の級と上級のさらに上に存在する特級がある。けど実はそれ以上に厄介な存在がいるのを知っているかい?」「ううん。それは知らない。鬼の王みたいな存在ってこと?」 ばさっと大扇を広げて、白冰はこくりと頷く。「鬼神といって、人の世にはまず関わらないとされるが、鬼の神だけあってその力は特級を遥かに凌ぐという。ま、誰も遭ったことがないからただの逸話にすぎないけどね。神と名の付く者だから、妖鬼なんかとひと括りにしてはいけない存在なのかもね」 そうなんだー、と初めて知ったその話に、無明は感心したように相槌を打つ。「あとは妖獣。元は霊獣だったもので、烏哭の宗主の闇の力で侵蝕されてしまったと言われている。霊獣を妖獣に変えてしまうほどの力を持つという時点で、我々には
夕刻になり邸の部屋に戻ると、土で汚れた衣や痣と擦り傷だらけの竜虎を見るなり、清婉が悲鳴を上げた。「疲れた········死ぬ······」 ぐったりとそのまま床に寝そべり、転がる。ぬるま湯の入った桶と布巾を手に、清婉は傍らに座って、汚れた頬をとりあえずそっと拭う。「大丈夫ですか? 初日からすごい有様ですね、」「いや、ホント······雪鈴ってあんなひとだったんだな。白笶公子の方が優しいとさえ思ったぞ」「え? そうなんですか? これ、雪鈴殿にやられたんです?」 清婉もそれには驚いて、やはり只者ではなかったんですね、と感心する。 そしてあの衝撃的な場面を思い出す。あれは昨日の料理の下準備の時だった。生の南瓜を片手包丁で、眉ひとつ動かさずに一刀両断していたのだ。しかもそれを見ても自分以外誰も驚いていなかったことから、これが彼の日常風景なのだと知る。「あの方が剣を振っている姿を想像ができません。どちらかというと雪陽殿の方がしっかりした身体付きですし、」「そうなんだよ。そこが不思議でならない。あのひと、終止笑顔で内弟子たちを叩きのめしていたんだぞ。しかも誰よりも腕力あるし、」 ある意味、彼の真実を垣間見た気がする。あの性格なので、内弟子には当然慕われていて、あの歳で弟子たち二十人を纏めているもの納得だ。「楽しそうでなによりですね」 膨れた顔をしていても楽しそうに話す竜虎を見ていると、ふたりが手合わせをしている姿を見てみたいとも思ったが、やめておく。自分は自分のやるべきことをし、それ以上は望まないに越したことはない。「少し休んだら、身体も拭いてください。着替えはここに置いておきますね」 言って、清婉は部屋を後にし、夕餉の手伝いをするため厨房へと足を向ける。(食事で少しでも元気になってもらえるよう、私も頑張らないと!) 夕陽に染まった渡り廊下を軽い足取りで歩く。厨房につけば昨日と変わらない顔ぶれがすでに揃っていて、奥で雪鈴と雪陽が仲良く並んでこちらに手を振った。「竜虎殿は大丈夫でした? 調子にのって少し遊びすぎてしまったもので」 あははと首を傾げて困ったように訊ねる雪鈴に、周りにいた内弟子たちは皆揃って顔を背け、苦笑いを浮かべる。「········あれ、遊んでたんだ」「········滅茶苦茶楽しそうだったもんな、」「あの笑顔が···
竜虎を含む剣術系の術士候補の弟子たちは十六人おり、残りの五人は邸の敷地内にある、別の修練場で符術系の白冰の修練を受けているらしい。 ここは白家の裏手にある霊山の中腹辺りで、周りは高い崖に囲まれている。足場が悪く、修練場だというのにあまり整備されていないようだ。 白笶と雪鈴が前に立ち、十六人は前後に八人ずつ二列で横並びしていた。竜虎はこちらの修練に雪鈴が参加していることが意外だった。見た目からしても細身で剣など握れなそうだが······。「みんなも知っている通り、今日から金虎の公子である竜虎殿が一緒に修練をすることになりました。けれどもこれはあくまで修練。公子も内弟子も関係ありません。いつも通り、遠慮なく全力で励んでください」 にこにこと満面の笑みでそんなことを言う雪鈴の言葉に、弟子たちは少し躊躇うが、はい、と揃って返事をした。 白笶は例の如くひと言も言葉を発していないが、それを補うように雪鈴が説明してくれる。ある意味均衡のとれた組み合わせなのかもしれない。 そして実際修練が始まると、白笶はひとりひとりに短いが的確な指示を出していた。一対一で手合わせをする形式で、準備運動のようなものなのか、体術の基本的な動作から始まった。(体術は得意な方だが、やはり一族ごとに形は違うんだな) 組み相手から繰り出される突きや蹴りを受け流しながら、そんなことを考える。こういう状況で思い出すのもあれだが、兄の虎宇との一方的な手合わせに比べると、余裕すらある。あんな性格だが、兄弟の中で実力は一番上なのだ。 しかし気を抜けば危うい攻撃に、手を抜くなんていう選択肢はなかった。「······基本は問題ない。踏み込みの際の利き足に注意すれば、より速く動ける」「あ、はい。やってみます」 今までその場その場で臨機応変に動くことに慣れているせいか、利き足を意識したことがなかった竜虎は、改めて言われたことを実施してみる。 すると、先程よりも一歩速く動けるようになった。当然繰り出される拳の力も増して、組み相手が両手で塞いだのにも関わらず大きくよろめいた。「ごめん、平気だった?」 そのまま地面に倒れてしまった相手に手を伸ばして、そのまま立ち上がらせる。「ああ、途中で気付いて手を抜いてくれただろう? おかげでこの通り、怪我はない」 自分より二つ年上の十七歳だという目の前の青年
竜虎は前日に用意してもらった、白群の弟子たちが纏う修練用の白い衣に袖を通す。剣術や体術の修練をするのに適した作りのその衣は、手足の先の部分が細く作られていて、試しに簡単な動作をしてみたが、かなり動きやすかった。「これで準備は完了です」 着替えの手伝いを終え、清婉はぽんと肩を軽く叩いて合図をした。「ああ。あれ、そういえばあいつはどこに行った? 朝餉の後から姿を見ていない」「無明様ならここに戻る前に夫人に引き留められて、どこかに連れて行かれたようです」「······なんで夫人が?」 さあ? と清婉は首を傾げる。邸の中は安全だし、麗寧夫人はどうみても善人なので、無明が馬鹿をやっても笑ってくれる寛容さもありそうだ。竜虎は深く考えないことにした。「じゃあ、行ってくる。無明が戻ったら、大人しくしてろと伝えてくれ。あいつは夕刻から白冰様の部屋で個別で教えてもらうらしいから、それまでに準備は整えてあげて欲しい」「解りました。任せてください」 早い朝餉を終え、半刻も経たない内に修練が始まるのだ。邸から少し離れた山の方に修練するための場所があるらしい。最低限の荷物を持って竜虎は別邸を後にした。 その頃、無明はなぜか麗寧夫人の部屋に連れて来られていた。豪華なものはなにひとつなく、綺麗に整えられたその部屋は藍歌の部屋に似ていて、なんだか親近感を覚える。部屋の中を見回していると、夫人が円座を用意してくれて座るように促した。「ふふ。一緒にお茶でもしながら、話し相手になってくれるかしら?」「え? えっと、俺なんかでいいの?」 いいの、いいの、と夫人は笑みを浮かべたまま茶器を用意し始める。白い磁器の蓋付きの茶碗を無明の前に置きゆっくりとその蓋を開けると、花の蕾のようなものがふたつ入っていた。「桃花の花茶よ。見てて?」 無明は言われたとおりに茶碗をじっと見つめていると、少しずつお湯の中でその桃色の蕾が開いていき最後には見事な桃花が花開いた。「すごい! こんな綺麗なお茶、初めて見た! しかも甘い香りがするねっ」「そうでしょう! 私の実家から送られてきたのだけど、みんな忙しいから一緒にお茶してくれる人もいなくて。ここにいる間、あなたが付き合ってくれると嬉しいわ」「うん! 俺も夕刻の座学までは特になにもすることがないから、麗寧夫人が一緒に遊んでくれるとすごく嬉しい!